「読書という荒野」見城徹
なぜ、あなたは「読書」をするのだろうか?
と目的を問われると非常に困惑する。
なぜなら読書は、
私の血であり肉であり、人生と切り離すことの出来ない産物であるからだ。
文字を追って追って漸く「読了」した!と妙な悦に入る私なぞ足元にも及ばない。
彼は所謂、「普通の人生」を嫌う。
彼の好むは「極端な人生」だ。
我々人類は、
生まれた瞬間「死」への一方通行を余儀なくされる。死に比べたら、途中の辛苦など「かすり傷」に過ぎない。
ならば、リスクを取らない安穏とした人生を送るより、危険に満ちた通過地点を通ろうではないか。そして、最後に微笑して「いい人生だった」と言える以上の幸福はないだろう。
彼はかねがね
「自己検証」「自己嫌悪」「自己否定」
の3つがなければ、人間は進歩しない。
と言っている。
そして進歩の先に待っているのは、
「自己肯定」だ。
それは自らの承認以外の何者でもない。
況や、人は死ぬその瞬間まで自分を認めてはいけないのかもしれない。
なぜなら、
認めた瞬間に進歩は止まってしまうためだ。
そういった観念は、
想像を絶するような光景に、目を見開くような「原体験」を経て得られるもの。
しかし、当たり前のことだが、一人の人生にはリミットが定められており、限られた時間に幾つもの原体験をすることは不可能だ。
そのための「読書」である。
彼は、
幼少期の不遇な時代も、
読書という名の血で血を洗う高野を突き進んできたのだ。
読書によって
他者への想像力や生きるための教養を磨き、まずは「認識者」になる。つまり、世の中の事象と原理を理解する。
その上で、覚悟を決めて「実践者」になる。
一旦、実践者になれば暗闇の中でジャンプし、圧倒的努力を以て、目の前の原理を生きるのみだ。
生きていくということは、
矛盾や葛藤を抱えて、それをどうにかしてねじ伏せるということだ。
そんな時に、
読書は常にあなたの最強の武器になるだろう。
我々は、
何気ない言葉で人を傷つけることができるし、
人を癒すこともできる。
それくらい「言葉の力」は計り知れないものなのだ。
さぁ、今こそ読書を経て、
血で血を洗う荒野へと自分の背中を押してくれる「言葉」に出会おう。