ハタチの読書録

20歳大学生の日々の読書を綴る

「リベラルという病」山口真由

 日本人で「リベラル」という言葉の明確な定義 を知っている人は数少ないように感じる。斯く言う私も本書を読むまで、リベラルの歴史を軽んじているがために浅い知識で保守派vsリベラルの構図を俯瞰していたように思う。私が思っている以上にこの歴史は深淵なもののようだ。初めてフランクリン・ルーズヴェルト民主党代表として大統領に就任してから、アメリカのリベラル信仰は国民に浸透した。リベラルとは性別的・精神的・身体的・人種的などあらゆる点でマイノリティーな人々の権利を守るための信条である。アメリカでは保守派の共和党、リベラル派の民主党で票が真っ二つに割れるのが至極当然だ。自分は保守でも隣の家族や、友達はリベラルかもしれない。だから、安易に対立の溝を深めないようにお互い譲歩すべきところは譲歩して、引き下がれないところでは過激に叫ぶ。これは米国の国民思想として当たり前でそのくらい個人の意志がイデオロギーとして政治に反映されるのだ。特に近年は過激なリベラル派の声が大きくなり、グローバル規模でリベラル信仰の暴走が歯止めが利かない状況になりつつあるのではないか?

 去年の年末日本では、年越しのの恒例人気番組「ガキの使いやあらへんで 笑ってはいけない24時」にて、ダウンタウン浜田がエディ・マーフィのコスプレで黒塗りをしたことにより、BBCニューヨーク・タイムズで取り上げられるほど非難の声が番組に寄せられた。私達日本人からすれば、たかが黒塗りで差別とか、日本ではそんなこと知ったことじゃない!などと思うかもしれないが、やはりこれは差別だ。確かに、日本にはアメリカのようなブラック・ショーやミンストレル・ショーはなかったので黒人差別の意識が強く根付いてはいないが、これは人類が共有すべき意識の課題だ。差別とは、見てる人が差別だと感じる人がいたら、差別だ。私達がどう感じるかそういう問題じゃない。反論としては、そういう差別だ!という見方をする人こそが黒人差別を助長しているのではないか?という主張だろう。やはり、これも間違いないが、現代の日本人にはポリティカル・コレクトネスが根付いていなさすぎる。これからオリンピックを迎え、世界を主導する1ヶ国としてメディアだけでなく私達一人一人がリベラルの思想を推し量った行動をとるべきではないか?しかし行き過ぎた自由思想が蔓延すれば、それこそ私達国民は、あれも差別だ!これも差別だ!という「リベラルの病」を患ってしまう。